2020年、小学校で英語が必修化されました。それ以来、このような声を幾度も聞いています。
結論として先生の英語の発音が子どものモデルとなるべき、という考え方をする必要はありません。このページでは、その理由についてお伝えします。
はじめに
まず、なぜ小学校の先生の英語の発音を気にする必要がないのか?
その理由は、「小学校の先生はそもそも英語の先生になるために小学校の先生をしているわけではありません」という話ではありません。「ネイティブの英語の正しい発音」という固定概念を持つことによって、グローバルな英語でのコミュニケーションに間違った考え方を持つ可能性があるからです。
そもそも英語には多様性があります。ネイティブの英語もあればノンネイティブの英語もあり、ネイティブ非ネイティブ問わず、「コミュニケーションのツール」として英語が利用されているのが現在の状況です。
たとえばアメリカやイギリスの人が話す英語。インドの人が話す英語。東南アジアの人が話す英語。南米の人が話す英語。アラブ諸国の人が話す英語。様々な国の人々が英語を通じてコミュニケーションを行っています。
そのため、確かに「本家本元」の英語を模範にすることは大切ですが、それが「英語はネイティブの話すような発音で話さなければいけない!」といった考え方は英語を学ぶ本質とズレています。
「◯◯英語こそ正解です」という固定観念を持つことは、コミュニケーションツールとしての英語を身につける上で、一つのブロックとなってしまいます。そしてそれは、英語の上達を阻害する「完璧主義的」な発想です。
ポイント
「◯◯の英語が正解です」といった「完璧主義的」な考え方。グローバルなコミュニケーションとしてのツールとしての英語を身につける上で、ブロックとなってしまう可能性がある。
教条主義はNG
大切なことは「英語とはコミュニケーションのツールである」という原則を忘れないこと。
もちろん、「日本人なまりの英語で何がおかしいのですか?」くらいの態度は行き過ぎかもしれません。なまりが強い英語は相手に聞き取ってもらえない(=理解してもらえない)からです。
ですが、英語の発音に関しては「ネイティブのように聞こえる英語を話さなければいけない」という考え方を選ぶ必要はありません。それは英語に問わず、あらゆる外国語を学ぶ場合も同じです。
たとえば、日本語を話す外国人の方のYouTube動画を観てみてください。日本語がなまっていても気にしないし、コミュニケーションが成り立っています。
母語ではない外国語を学ぶ本質はコミュニケーションの世界を広げること。だからこそ「◯◯であるべき」という教条主義に従うのではなく、コミュニケーションのツールと英語を使えることが重要です。
外国語に対する日本人のメンタリティの変化
上智大学名誉教授で英語学の専門家である渡部昇一先生は、その著書『正義と腐敗と文科の時代』の「英語教育考」で、かつて我が国の語学力は「外国語を日本語に置き換えて理解する」という意味でとてもハイレベルであったという事実を指摘されています(同書、P294)。
明治維新後、日本人は様々な外国の文化文明を学ぼうと外国語を学び、外国の本を日本語に訳しました。その結果、戦前の時代でさえシェイクスピアやゲーテなどの全集、カントやヘーゲルなどの哲学者の翻訳本さえ、読むことが可能でした。
そして戦後「語学力」に関する認識が変化し、「戦後の日本人はアメリカ人の進駐軍に通じる英語かどうかがメンタリティに意識した」(P288)といった変化を指摘されています。
語学教育で特に重要視されていたのは外国語を正しく理解し、翻訳する力。戦前の日本の外国語教育では「正確に外国語を日本語に翻訳でき、その仕組を説明できる力」人が評価されたそうです(P295)。
そして、いくら外国の発音がネイティブなみに流暢でも、正確な日本語への翻訳ができない先生や、外国語の仕組みの理解に乏しい先生は、生徒に尊敬されなかったそうです。
「いくら難しい外国語の本を読んで理解することができても、外国語を話すときに発音が流暢でなければおかしい」という考え方を持つようになったという渡部先生の指摘は、とても印象的です。
「英語はツールである」という認識
話がそれましたが大切なことは、「何のために」英語、すなわち外国語を学ぶか?という点ではないでしょうか。
確かに現実として英語は、学校教育でも重要ですし、学校を卒業したあとはビジネス、そしてプライベートで英語を使う機会は増えつつあります。その状況で大切なことは、ツールとして英語を活用することであってアメリカやイギリスの人のようにかっこよく英語を話すことではないと思います。
重要なのは英語をツールとして使いこなすことができるかどうか。それが大切なことではないでしょうか。
英語を学ぶ上でネイティブのように流暢な英語を話せればかっこいいかもしれませんし、「英語が話せる」と自信を持てるかもしれません。ですが、私たち日本人にとって英語は母語ではありません。あくまで外国語です。
英語という言語を文章はもちろん、話された英語を理解できること。そして文章または話して自分の伝えたいことを伝えることができること。そこで優先される事柄は、「ネイティブにような発音で英語が話せる」ということではないでしょう。
自分の考えや伝えたいことを英語を通じて正確に伝えることができる。相手の英語を正しく理解することができる。そのためにネイティブの発音を理解し、学ぶことは大切ですが、「ネイティブの発音をその通りに再現しなければ正しい英語ではない」という話ではありません。
最後に
英語を学ぶにも「ネイティブが話すような英語」ではなく、英語はあくまでコミュニケーションのためのツールであるということを認識することはとても大切です。
とあるYouTubeの番組に出演していた政治アナリストがとある有力者の息子が海外留学し、現地の大学の先生にその中身のなさを指摘された話を語っていました。
いくら英語の発音が流暢でも、伝える内容を自分自身の頭で考えたり、今まで学んできた知識をもとに伝えることを伝えるスキルがなければ、「中身がない人」(原文はより手厳しい表現です)という評価をされてしまうのは、英語圏だけでなく、どの世界でも同じことでしょう。
「発音」は英語の聞き取りに関係しますし、それを雑に扱うことは適切ではありません。ですが、「ネイティブのような英語の発音こそが正解である」というような固定観念を持つこともまた、適切ではありません。
学校では学校で学べる英語があります。特に基礎的な力となる単語力や文法といった部分をおろそかにせず、しっかり学んでおけば、いずれ英語をアウトプットする経験を有効に活用することができるでしょう。