翻訳ツールの発達で英語学習はもはや不要になる?

会話する男女

近年、技術の発達によって翻訳ツールが劇的に進化しています。

身近な事例ではグーグル翻訳。2010年代と比較するとまさに仰天。翻訳機能の性能が飛躍的に向上し、翻訳精度も進化しています。

「適切かつ正しい翻訳が可能」とは言えないものの、必要に応じてスマホを取り出して翻訳を行えば、大意を理解することは十分可能です。

グーグル翻訳に限らず、AI翻訳などあらゆる方向で外国語の翻訳ツールは発達しつつある現状、将来的には「もう英語(に限らずあらゆる外国語)を勉強する必要はありません」という状況が訪れる可能性が指摘されています。

では本当に英語学習の必要はなくなるか?このコラムではそんな疑問について考えます。

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はじめに

私たちは「学びたい」「成長したい」という欲求を持っています。

道具(翻訳ツール)を使いこなすだけで十分という人だけでなく、「自分自身」でそれを使いこなせるようになりたい。だから勉強して身につけたい。そうした人々の語学学習へのニーズは、減少する可能性は高いものの、根本から消えることはないでしょう。

そのため、「正直、あまり語学の勉強は好きではないんですよ」という人々は翻訳を使い、「私は語学の勉強が楽しいです!」という人々は自分の力で語学力を身につける。そうした、英語学習ニーズの「細分化」が深まっていくと個人的には予想しています。

すなわち、求める人は深く、徹底的に。必要性を感じない人はかんたん、手軽に。人によってニーズが大きく変わると考えています。

翻訳機能は様々なサービスで広がっている

スマホや翻訳機などのツールを使える場合、日常レベルで英語でのコミュニケーションは十分に行えるレベルになっていると言えます。

twitterなどで海外の人とのコミュニケーションを取る場合も、翻訳や言い回しなどを調べれば相手が何を言っているかは、言語に関わらず、問題なく概ねの内容を理解することができます。そして、日本語を外国語に変換することも可能です。

こうしたサービスはグーグル翻訳だけではありません。たとえば、私は動画やCM、ドキュメンタリーなどで使用可能な音楽のライセンス(使用権)をストックサイトで販売しています。

それらは海外のでも販売されており、日本語の楽曲の説明文が英語に翻訳され、公開されています。その翻訳機能は機械的であり、正確で自然とは言えませんが「実用」という意味では十分です。

songとmusicの違いなど単語の変換チョイスや、文章がやや機械的な翻訳ニュアンスになってしまう等の課題はあります。

極論を言えば、「英語が全くわからなくても」海外に向けて、英語で情報を発信したり、商品を販売することができるのです。

翻訳機があれば海外旅行も安心

また、日常的なコミュニケーションや海外旅行でのコミュニケーションでは、スマホでの翻訳アプリをはじめ、ポケトークのように翻訳機能に特化した商品も販売されています。

それらのツールを使えば、相手の話す言葉をツールで翻訳して理解し、自分は日本語で話した言葉をツールで外国語に翻訳してもらいコミュニケーションを取る、ということが可能です。

もちろん、「ツールなど使わなくても自分で外国語を理解して自分で外国語を話せる」という状態がベストですが、「外国語でコミュニケーションをとる」ということであれば、外国語の知識ゼロでも、それ自体は十分に可能になっています。

こうした状況を踏まえると、「もう、英語学習は不要では?」と考えるのは自然なことなのかもしれません。

必要なのは「何のために」

前提として、私たちは英語を学ぶとき、英語学習それ自体が目的ではなくて、「英語を学び身につけることで可能となる何か」が、英語学習の本当の目的になるはずです。

この意味で、人によっては、「私が必要とする英語力は、翻訳ツールを活用することで十分OKである」となる人もいます。そういう人の場合、翻訳ツールを用いて、英語学習に投資する時間を節約するというチョイスは、とても合理的な選択でしょう。

物事には優先順位があります。「私は英語を使って○○できればOKです」というラインに到達可能であるならば、英語学習に以上に優先すべきことを優先する。そういった現実的な発想も大切だと思います。

英語は今すぐノーコストでは身につかない

英語学習を自力でおこない、翻訳ツールを使わずに翻訳ツール並のスキルを身につけるためには、それ相応の時間に、労力を投資する必要があります。

これからの時代は、ツールに頼らなくても必要な範囲で英語の読み書きができる力を身につけるというチョイスのほか、英語は必要最低限勉強して、用途に応じてツールを活用するというチョイスも可能です。

ただし、ツールを使うためにも、最低限の知識はないよりあったほうが良いでしょう。「英語学習=もう不要」という話ではなく、人によって必要とする学習の「深度」が変わってくるのが、これからの時代なのだと思います。

結論としては、英語学習は不要ではなく、可能であるならば最低限の学習(英語という言語の基本構造を理解するために必要な中学3年間、可能なら高校3年間で習う英語)を従来通り行った方が、ツールを使うにしても、学習を行う価値があると考えています。

ツールに頼り切った先に待っているもの

ツールを使うことで私たちは、何かを身につけるという努力から開放されます。その代償として私たちは、ツールに依存することになります。それが示すのは、「ツールがなければなにもできない」という可能性です。

それを示唆した興味深い映画があります。それが『ドラえもん のび太とブリキの迷宮』です。日本の国民的アニメとして有名な『ドラえもん』の映画作品で、その内容は令和の今だからこそさらに、興味深い内容となっています。

ネタバレがあります

「のび太とドラえもん、そして仲間たちが人間がロボットに支配されているチャモチャ星で人々のために戦う」というのがそのかんたんなあらすじなのですが、なぜチャモチャ星の人々はロボットに支配されてしまったのか?重要な映画の主題が、そこにあります。

チャモチャ星では科学技術が発展し、人々が「楽をする」開発が行われていました。人々はやがて、開発することそれ自体が面倒になってしまい、研究開発さえも自動で行ってくれる人工ロボット「ナポギストラー」を開発しました。

人工ロボット「ナポギストラー」は人々が何もしなくてもいいような開発を続けた結果人々はロボットに依存して自分で動く体力さえ失い、自分では何もできない存在になってしまいました。

そして「ナポギストラー」はロボットたちを使い人間に反乱を起こしチャモチャ星を支配するのですが、『ドラえもん のび太とブリキの迷宮』が描くテーマは、私たち人間とツールとの関係においてとても示唆的です。

「自分で」できることの意味

道具は使われるためにある。そして道具を使えば人々は快適に暮らすことができる。だけれどもその便利に「依存」する代償として私たちは、自分で何かをする能力を失ってしまう。

チャモチャ星では人々は自分で歩く必要はありません。個人用の移動カプセルに入り、目的地まで自動で送ってもらうことができます。自分の考えを瞬時にロボットに伝えるアイテムを使うことで、ロボットがご飯を食べさせてくれます。

自分の体を動かさなくても、ないかをしようとしなくても、ロボットたちがすべてやってくれます。そのため体は衰え、ロボットなくしては何もできない存在になってしまったのです。

『ドラえもん のび太とブリキの迷宮』は1993年に公開された映画ですが、ここで描かれている警鐘は令和の現代、現実味を帯びていると言えないでしょうか。例えばスマホを使っていて思うのですが、「漢字が書けなくなってしまったなぁ」と思います。

スマホで翻訳アプリを起動し、伝えたい言葉を話せばそれを瞬時にツールが外国語に翻訳してくれます。これは便利な反面ツールに依存することで、ツールなしでは何もできなくなってしまう可能性を秘めています。

シンプルな話ですが、「自分でできる」ということはとても素晴らしことではないでしょうか。だからこそ私たちには「できないことをできるようにしたい!」という、先天的な欲求を持っているのだと思うのです。

最後に

いくら翻訳ツールが発達したところで、英語学習のニーズは存在し続けるでしょう。なぜなら私たちは、自分で新しいことを身につけ、そしてできることに喜びを見出す存在だからです。

冷凍食品が発達して料理がかんたんになろうとも、「自分で美味しい料理を作れるようになりたい!料理を勉強しよう!」という人がたくさんいるように、「英語のツールは便利だけど、やっぱり自分の力で!」という人がいなくなることはないでしょう。

できないことができるようになる。自分で学び、何かを身につける。「役に立つ」「必要だから」そうした理由以外に、私たちが何かを学ぶ理由が、あるのです。何かに頼り切るのではなく、自分でそれができる。シンプルですが、大切なことではないでしょうか。

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